うた・こえ・からだをひらく
感応閑話
第18話 身のよるべなさとダンス白州の衝撃 前編

裸になる、毛をそる、あらたな皮膚をとじてゆく。どうして、そんなふうにからだに頼らざるをえなかったのだろう。あるいはなぜそんなにも、踊るからだの可能性を信じることができたのでしょうか。それは大学に入ってもなお続く、机にすわってノートをとるという、硬直的な座学への失望からうまれたからだの声だったのでしょうか。それとも、高校までひたすら続けてきたサッカーが突如として終了したことによる、力のありあまるからだの叫びだったのでしょうか。
ですが、もっとも大きかったのは、そのときのわたくしの圧倒的な“よるべなさ”だったのではないかと思います。文学、音楽、写真、映画、舞台……、おおよそ芸術とよばれるものをこれでもかとむさぼり続けながらも、自分がよって立つことのできる信条や哲理、生きかたが見えてくるわけではない。それは息をつくことのできるファンタジーとして、現在からの逃亡先としては申しぶんないけれども、それでいてあとに残るのは、空腹でお金もなくただほっつき歩く自分のからだであり、自分とそっくりの歩きかたをしている虫や犬猫たちでした。誰が散らかしたのか、食べることもできない残飯にたかる蟻や蝿の存在の嘘のなさ、曇天のときにこそ異様にくっきりと見える山の樹々や、毎日のように現れる夕焼け、なにかを思い出しそうになる風に、たえがたいほどの郷愁を感じてしまうからだを、いやになるくらいもて余していたのです。
おそらくわたしは、感じたままに動くからだを、とことん使いつくす場を必要としていました。そこで出会ったのが、「ダンス白州」でした。これは当時、関西のダンスシーンをしらみつぶしに見ていたときに、とあるダンサーのプロフィールに「ダンス白州参加」という文字を見つけたことにはじまります。ふつうは、受賞歴や公演名などが連打される略歴に、出演ではなく「参加」というところがどうもひっかかったのです。早速、図書館のPCで調べたところ、なんと2週間以上にわたって山梨県の白州というところで、ダンスや美術、芸能や音楽公演が野外で開かれているようでした。というのも、チラシのPDFがデスクトップの画面におさまらないほど大きくて、拡大してみたり、前後左右にスクロールしても全体像がつかめなかったのです。これは行くほかないと腹は決まっていたのですが、全日程参加するには寝食にお金がかかり過ぎる、とHPをめくっていたら、渡りに舟とはこのこと、「ボランティアスタッフ募集」という案内が目に入りました。
はじめてのボランティアスタッフ
わたしがボランティアスタッフというものに参加したのは、考えてみればあとにも先にもこの「ダンス白州」だけだと思うのですが、事務局にメールしたところ、いつから来ることができますか? といったシンプルなお返事に、明日から行きますといって電車に乗ったのが、2003年8月12日でした。今でもそのときに乗った中央本線、それから何度となく乗り降りすることになる日野春駅のひなびた風情、そこから横手地区までのバス、そしてまず到着する事務局であり、スタッフの寝所であり、食堂のある「身体気象農場」(※後述)、すべてが鮮明なままです。それから2006年まで毎夏1か月をそこで過ごしたのですから、わたしは、あの場所に、自分にとっての真の夏を置いてきたのではないかという気がしてならないのです。
わたしが目の当たりにした「ダンス白州」は、1985年にダンサーの田中泯(たなか・みん)が白州に「身体気象農場」をひらいたことを起点に、1988年から1992年まで「白州・夏・フェスティバル」という4日間の芸能と野外工作美術展にはじまりました。1993年からは、そうした祝祭型ではなく、場、舞台、美術、音楽、芸能、カフェ、ワークショップ、畑、をつくるプロセスすべてを公開してしまおうとする「アートキャンプ白州」に名前を変えて展開されました。「一刻も考えない革命」と呼ばれたこの夏のいとなみは、1999年までの12年を一区切りとして終了したはずでしたが、2001年から「ダンス白州」と名をあらたにして再開、1か月を越える場づくりと場踊り、国際的な舞台公演から民俗芸能まで、全日も休むことなく日々展開され、2010年をもって20年を越えるそのこころみは、幕をおろしました。
2022年、千葉の市原湖畔美術館で「試展-白州模写 『アートキャンプ白州』とは何だったのか」、2025年には山梨県立美術館で「ドキュメント『アートキャンプ白州』-記録映像で甦る夏1988~2010-」によって、この名づけようのない白州でのことを総括的にふりかえる展覧会が開かれましたが、2000年にはじまった3年に1度の「越後妻有トリエンナーレ」を待つまで、日本にこのような長期かつ多分野、昼夜を問わず野外、興行でもなく伝統的な祭りでもない、国際的ないとなみは、存在しなかったようです。田中泯を現場親方としながら、白州という土地に根ざす身体気象農場メンバーや、田中泯が率いる「桃花村舞踊団」メンバーをふくむ、ダンス白州実行委員会は、日本中、あるいは世界から集まってくる有志スタッフ、延べ数百名と混ざり合いながら、竹や土、土間や水の舞台をつくり、行列をなすお客さんを迎える公演やワークショップを支え、つきせぬ議論と協働を有名無名問わずにくりひろげたのです。
「白州日々新聞」のつくり手となる
はじめて「身体気象農場」に到着して荷物をおろし、「ダンス白州」のメイン会場とおぼしき栗林に案内されると、数日前に前夜祭も開幕イベントも終えたところでしたが、まだまだつくり続けられている舞台や、フィールドをめぐるための自転車修理など、トンカントンカンと誰しもがひたすら準備にいそしんでいて、やることが無限にひろがっていました。わたしも黙ってそれらの作業にまぎれこんでいたのですが、その翌日13日の昼に、畑での踊りの公演を見てしまったのが運のツキでした。あっけにとられたというのか、時間がひきのばされてからだに穴があいたような感動をしてしまったのです。
それはダンス白州で何度も登場してきた「え〜りじゅん」という舞踏家が突然亡くなったことで、親しくしていた4人の舞踊家が、それぞれが、故人に向けて踊ることを急遽決めた追悼公演でした。踊りにこんなことができるのか! わたしは矢も盾もたまらず、このことの感想を書きはじめました。見たものを言葉にしてゆく傲慢(ごうまん)、独断の自意識をひきずりながら、それでも自分をばっくりと引き裂いたものを、目を閉じて手探りするこころみは、会ったこともない「え〜りじゅん」という存在を、わたしの中に立ち上がらせていきました。たしかにこれもまた、「命がけで突っ立った屍体」(※舞踏家・土方巽のことば。くわしくは本連載16話)だったのであり、伝説ではない今を生きる舞踏との出会いをもたらしていたのです。
このとき書いた感想は、事務局の好意でプリント配布され、あちらこちらで反響があったことで、わたしはそれが読み回された16日から、1988年の創立からスタッフがつくってきた「白州日々新聞」を書きついでいくことになりました。わたしにとってそれは毎日の公演をただ記事化するものではなく、「ダンス白州」という得体の知れない、判断のしようのない混沌としたいとなみをどのように文字にするのか、というみずからが進んで背負った困難でした。このときの格闘は、手書きの新聞としてまとめられ、どちらも上記の「アートキャンプ白州」展で、ファイリングされて、閲覧可能なものとなっていました。
それを20年ぶりに読み返してみて、わたしが感応を、生きていることのダイナミズムをイメージするとき、今もダンス白州の夏の幻影を追っているのではないか、と疑わざるをえません。毎朝開かれるスタッフ・ミーティングのたびに、何のために、誰のために、何を変え、何を大切にできるのか、何百食つくり、何千文字を書くのか。手足を動かして表してゆくこうしたつとめは、アートやフェスティバルといった分野概念、社会の既存のシステムや消費構造にのみこまれることなく、生きることを問い、プロフェッショナルを問い、肩書きをおろして、あらたな生の種を瞬間瞬間に、からだに孕(はら)みなおしていくような、こころみでした。ダンスは舞台上にだけあるのではない。まさにこうした試行錯誤のなかで、思考も感情もはがれてはあらたまり、生まれえなかった種も、死んだむくろとなってゆくようないのちのいとなみが、いかにもダンス白州、ダンスの本懐なのでした。

1983年香川県生まれ、トランス・ナヴィゲーター。3児の父。幼少より郷土芸能に親しみ、日本各地の神事芸能や現代舞台芸術に足を運ぶ。2010年より岐阜県郡上を拠点に、わらべうた、作業唄、踊り唄、祝い唄の採集と伝承をライフワークとし、民謡バンド「GUNSOKAI」として活動。2020年より、声・うた・からだの探究と感応を促す「トランスワーク」を開発、各地でWSを開催。近年は、山伏修行もつとめ「山伏鵺(ぬえ)神楽」などの創造的奉納に励む。「源流遊行」(長良川カンパニー)、クラフトアパレル「ODORIGI」など、土地と人の関係をとらえなおす企画やメディア編集、ブランディングも行う。2025年5月に編集長として制作したzine『源流遊行MANUAL』vol.1を発行。
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源流遊行HP https://genryu-yugyo.com
