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マーマーなリレーエッセイ

#1 服部みれい

今あらためて「あたらしい自分になる」のこと

 

◎本来の自分になる時代に

「あたらしい自分になる」ということは
未だ見ぬ、「今の自分とは異なる自分になる」ということではなくて、
「本来の自分になる」ということそのもののことを指します。

何か、こう、人間として成熟していて、同時に若々しい人、
「問題」というものが存在しないかのような人、
「問題」というようなものが目の前にあらわれても
たちまち「好機」になってしまうような意識の状態にある人、
まわりとぶつかるところがなくて、ものごとの進行が非常にスムーズな人、
いつもこころに、からだに、エネルギーが充満していて枯渇しない人、
与えられることと与えることのバランスが調和している人、
常にゼロの自分に立ち戻ることができて、リセットができる人、
葛藤がなく、ものにも愛にも飢えていない、足りないということのない人、
人に借しをつくることができて、しかもその借しを調和の中で返せる人、
こういった人に共通する特徴は、
その人の「あるがまま」=本来の自分で生きている、ということです。

「あるがまま」で生きているといったって、
わがままし放題、自分本意で自己チューで、ということではなくて、
ただ、その人のいのちが、みずみずしく、「そのまま」でいる、
とても無邪気で、取り繕ったり、格好つけたり、
いいわけしたり、力んだりするのではなく、
ただただ、あかちゃんみたいな状態でいる、ということです。

そんな状態でいる人は、
自然のふるまいに無限の、有機的な広がりがあり、
何もかもタイミングがよかった、ということがたくさん起きます。
結果、「無私のわたし」、他人本意のわたし、であったりもします。

この状態には、特別な人だけがなれるということではなくて、
誰もがなれるものだ、という点が大切なポイントです。
誰もが、大きく見れば、
そういった流れの中に存在している、ともいえるのです。

 

◎本来の自分自身でいるには

今、時代はとても「正直」になっていて、
これまで覆われていたベールのようなものが、
がばっとはがされはじめている、そんな感じがしてなりません。
それが、どんどん加速していると感じます。

そんな折、どうやら、「頭」で考えて
「いい人でいよう」「徳を積もう」などというレベルをはるか超えて、
「本来の自分でいる」ということが
今の時代を生きる上で、とても、スムーズで、
簡単にいえば時代に合った生き方だ、というふうに感じるのです。
「こうするべき」で動くよりも、
自分自身を知り、自分自身に合った生き方をしたほうが、
結果、豊かでたのしそうだナ、ということです。

さて、そんな自分であるにはどうしたらいいのでしょうか?

ここちいい、きもちがいい、
たのしい、おもしろい、わくわくする、
なによりしあわせだ、
そんな気分のとき、人はどうやら
本来の自分に、より近くなっているようです。

毎日、ひとつずつ、惰性に陥ることなく、
こういった「気分」のことを
勇気をもって選択していくことによって、
本来の自分に近づいていく=あたらしい自分になり続けることが可能です。

がまんしたり、
がんばったり、
頑固でいたりすることは、 もう、時代的に、古いのです。
「過去のやりかた」なのです。

がまんも、がんばりも、がんこであることも、
一見、「よいこと」だったり、「正義」に見えるかもしれませんが、
「よいこと」や「正義」ほど、
あやういものもないかもしれません。
よくよく目を凝らしてみれば、
非常に自分本位な、「エゴ」から発したものにほかならないことも
自分自身に正直になればなるほど
わかってくるはずです。

あたらしい時代は、もっとスムーズで、幸福がたくさんあります。
いのちが中心となり、たましいが喜ぶようなこと、
いつも安心していて、たのしいことがたくさんになるはずです。

究極的に、自分が何を求めているのか、
もっといったら、自分は何のために生まれて来たのかを問うときに、
こういった選択がより豊かにできそうです。

わたしはこの3月に、自分の生まれ故郷である
岐阜の美濃の町に戻ってきました。
転校生だったわたしは、
この地で育ったことがなく、幼なじみもいません。
それでも、「あたらしい自分になる」流れで、
うつくしい山なみ、長良川の大らかな流れ、
そして、まるで「江戸」のような町並みが今なお残る
この生まれた場所に戻っていくという選択は、
極めて自然で、かつ豊かなものでした。

本来の地にいるわたしは、より自然に、よりエネルギッシュに、
なにより、より素直に、
本や雑誌づくりをしていけそうだ、という予感に満ちています。

こちらに越して来てまだ3週間ですが、
からだがとても楽で、こころもリラックスしています。
空気、水、土、そして人のすべてが、わたし自身に
みずみずしさをもたらし、活性化してくれているかのようです。
これから起こることに、
想像を超える豊かさがあると、お腹の深い部分で確信をし、
その確信にすべてを委ねている、といった状態です。

「あたらしい自分になる」という選択は、
一見すると、とてもちいさくて、場合によっては地味に見えること、
灯台下暗しともいえるような、あまりに身近なところに
潜んでいるのかもしれません。

山登りに例えるならば、登っていくだけではなくて、
思い切ってルートを変えたり、少し立ち止まってみたり、
場合によっては下っていく選択をすることにあるかもしれません。

力を抜いて、重い「自分」などというものを外したときに、
「ああ、こんなことだったのか」という感懐とともに、
目の前に立ちあらわれてくるものなのかもしれません。

あらためて「あたらしい自分」と
本来の地で向かい合いながら
力が抜けていく自分を
わたし自身、愛らしく感じ、
ほほえましく、静かに見つめているところです。



服部みれい

はっとり みれい|マーマーマガジン編集長、文筆家、詩人。著書に『あたらしい自分になる本』『自由な自分になる本』(ともにアスペクト=刊)、『あたらしい東京日記』『あたらしい結婚日記』(ともに大和書房=刊)、詩集『だから、もうはい、好きですという』(ナナロク社=刊)、『服部みれいの冷えとりスタイル100連発ッ』(エムエム・ブックス=刊)ほか多数。近著に、『なにかいいこと』(PHP文庫=刊)。岐阜県生まれ。