うた・こえ・からだをひらく
感応閑話
第10話 起居(ききょ) に万(よろず) の福あり 怪我の効用編

(「起居」の様子。トランスワークにて)
我が怪しい場所
雨水がすっかり雪をとかして、気の早い梅や山桃が咲きはじめています。ところどころにフキノトウが芽を出し、例年より2週間以上も早い里の春のおとずれをむかえているせいか、土地の人はなんだかそわそわしているようで、トラクターを動かしてみたり、田畑に入ったりしています。
とはいえ、雪がまだまだ積もっているような、陽のあたらない山の中や標高の高いところに足を踏み入れると、天の気の移ろいに惑わされないかのごとく、土がまだ前の季節を宿しているという当たり前のことにきづかされます。
川でむつみあっているオシドリたちも、まだ北国へ帰るそぶりもないのに、あるとき不意に飛び立つのだから、私という独りの人間もまた土地に似たなにかであり、このからだに季節を宿したり、からだのなかでどこかへ渡ったりしているのかもしれません。
というのも、1か月ほど前に左足の指を痛めたのですが、思い返せばこの6年の間、3回ほど左足を怪我しているのですね。この「怪我」という文字はまことに言い得て妙で、我が怪しいと書く。どうやら我が怪しい場所、怪しい季節を迎える土地が、今のところ左足ということはいえそうです。
1度目は、庭木を剪定していたときに、それまで庭師の仕事でそんなことは一度もなかったのですが、どうも立てた三脚の掛け金があまかったのか、上までのぼった途端、三脚がつっぷすように足を開いて地べたに倒れてしまった。こちらは、踏み込んだと同時に足場を失って、そのまま足裏をアスファルトにぶつけるように落下したため、転びはしなかったのですが、したたかに左足の踵(かかと)を打ちつけました。
大変な痛みだったので一応レントゲンをとったら、運良くひびは入っていなくてそのまま生活できたのですが(踵は特に治りにくくて、ひびでも入ったら即ギプスなのだそうです)、1年ほど痛みました。起き抜けがしみるというのも興味深いことでした。
2度目は、夜に自宅に帰り着いて、明かりをつけずに玄関の上がり框(かまち)に左足を振り上げたところ、ちょうどプラスチックの野菜箱があったようで、小指を勢いよくぶつけてしまった。こちらも腫れがひどくならずにすみ、足の外側に体重をかけなければ日々には影響がないとそのままにしましたが、1年以上痛んだものです。
そして今年の1月末に、とある商店街の路上で踊りくるう機会があったのですが、私が立ち回っていたゴザのつなぎに割れ目があり、左足の人差し指が実にうまく入ってしまった。駆けずりまわるなかで、指がすっぽりハマったなとは思ったんですけれども、踊っている途中ですから、つんのめるように足裏に指がもがれるのを感じながら、ぐるりと態勢をまわしかえて指を抜き、その場をやり過ごしました。
からだがカッカしていたのと、アーケードの下で寒風がふきすさんでいましたから、そのときは痛みも感じずに踊り続けられましたが、夜には腫れと痛みがひどくなりました。ところがこちらも数日経つと腫れがおさまって、危険を感じる痛みもひいてきたので、今も様子を見るだけですんでいるのです。
虚がひきいれる痛みとゆるみ
それで思うのは、そこにあるはずない、そうなるはずない、という思い込みが左足にあるようなんですね。からだがそれを毎度教えようとしている。片や無理や疲労による痛みは右膝にあって、ふだんの偏り、重いものの運搬や、意識のアンテナを張る感覚も右半身優位です。実動を色々と引き受けたり、我慢をしているのが利き腕、利き足のある右側といえるでしょう。
そうしてみると、私にとっての左足は、整体師・野口晴哉(のぐち・はるちか)のいう「虚=気の落ちているところ」と重なります。野口晴哉を世間に知らしめた名著『風邪の効用』(ちくま文庫)では、風邪はおさえるものではなく、経過させるものであり、浄化の必要があってひいているのだから、うまくひくのがよい、ということが書かれています。その一方で、風邪をひく理由に、例えば「マフラーをするのを忘れた!」と外に出て気づいたその瞬間、首の後ろの虚から風邪が入ってくるんだ、というのです。
これをしているから大丈夫、これがないとダメだ、そんなお約束が、ふと破られたときにあらわになる虚とからだの関係。まさしく「我が怪しくなる場所」というわけです。では、そもそもマフラーをするのを忘れた、なんて気づかなければよかったのでしょうか。これはこれで風邪の効用を無視したものであって、風邪が、怪我が、虚が悪いわけではなくて、虚と実は、陰陽のように、コインの裏表のように、春の山に残る雪のように、生きるいとなみ、はたらきのなかで相対し、互いが入れ子になっているのが本当ではないでしょうか。
私も、三脚にすかされるとは思わず、上げた足の先に微動だにしない箱があるとも知らず、そしてやはりゴザの破れ目に足の指が入るとは夢にも思っていなかった。そうなる可能性があるとふんでおくことや、道具のしまつが大切なのは前提ですが、その思ってもみなかったことを必要としている左足があるとみるのも面白い。そしていったん痛めたなら、まるで幼児の注意欲求のように、痛みを主張してくるのですから、これは無視できないものです。
突発的な激しい痛みは全身に圧倒的な緊張をもたらしますが、その後にくるのは大きな弛緩です。痛みはじめは動くことができなかったとしても、そのあとに感じられる、痛みの引き潮を、それが数分から1週間、あるいは1年間にせよ、ゆるみつづける波を感じたり、堪能し切ることは、私にとってかけがえがない時間、おつきあいです。気がおちていた左足は、そのようにして注目され、気をとりもどし、調えられるという自然治癒をはぐくむため、腫れは冷やすよりもあたため、固めるよりも開放しておくのが肝心だと学んだのです。
起居の発見と効用
そんなことで、私はまだ指の付け根に残るわずかな痛みから、無理に左足を前に踏み込んだり、爪先で踏ん張ることがないようにしているのですが、ふだん私が開いているトランスワークの基本である「起居(ききょ)」が、ここでいっそう役立っています。起居とは、立ち坐り、起き伏しといった意味ですが、膝をたがえてからの正坐や、足の甲をつかった片膝坐り、両足をクロスして腰をおろす安坐など、左足を踏み込まずとも、手をつかわず、まっすぐに、それも楽に立ち坐ることができるのです。
そういえば、トランスワークの初めての受講生が、爪先に力が入らず、坐るときに膝をどんと突いてしまったり、頭を下げ腰を引いて、なんなら両手を前に出して、よっこいしょと坐ろうとします。また、膝や腰にも無駄な負荷をかけてふらふらと、あるいは踵重心で立とうとするのです。
自分のからだがいかに重いかをより感じることとなるその起居は、床坐の生活や、腰を下ろして作業することが減った、現代の暮らし方、からだと場所の関係のあらわれなのでしょうが、日々のことですから、重くふらつくようなものではなかったはずです。むしろ自重を感じない、しずかでかろみのある起居は、かつて誰もが当たり前にしてきた所作、ふるまいだったと思われます。
私にとってこうした起居の発見は、からだの革命といってもいいほど大きなことでした。そして、その起居を日々の暮らしのなかで稽古することを「起居万福(ききょばんぷく)」という禅語でよんでいるのですが、次編では、その発見のきっかけとなった話、万福をもたらす起居の多様さについて紹介しましょう。
◎3月14日(土)更新の後編に続きます!
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https://mmbooks-eventandschool.square.site

1983年香川県生まれ、トランス・ナヴィゲーター。3児の父。幼少より郷土芸能に親しみ、日本各地の神事芸能や現代舞台芸術に足を運ぶ。2010年より岐阜県郡上を拠点に、わらべうた、作業唄、踊り唄、祝い唄の採集と伝承をライフワークとし、民謡バンド「GUNSOKAI」として活動。2020年より、声・うた・からだの探究と感応を促す「トランスワーク」を開発、各地でWSを開催。近年は、山伏修行もつとめ「山伏鵺(ぬえ)神楽」などの創造的奉納に励む。「源流遊行」(長良川カンパニー)、クラフトアパレル「ODORIGI」など、土地と人の関係をとらえなおす企画やメディア編集、ブランディングも行う。2025年5月に編集長として制作したzine『源流遊行MANUAL』vol.1を発行。
インスタグラム https://www.instagram.com/hierotix
YouTube https://youtu.be/a1wsc91rT8E
源流遊行HP https://genryu-yugyo.com
