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リレー・エコ連載

更新日 2008/09/19

エコ・リレー連載 murmur学園 エコ部!第1回/「エコ部!」では、今さら人に聞けないエコの「きほんのき」から、エコにまつわる、かわいくてちょっとしたアイデアを、各界の方々にご紹介いただきます。部活の先輩に教わるように、甘酸っぱい気分で、学んでいきましょう!

エコ連載も、もう第5回目。今回は、murmur magazineが1冊につき100円を寄付している「アマゾニア森林保護植林協会」会長の長坂優さんのご登場です。

長坂さんは、アマゾンに渡って43年。1965年、たった1人でジャングルに入り、広大な土地への壮大なロマンを抱いて開墾をスタート。しかしあるとき、木を切りすぎたことへの猛烈な反省から、森林保護の活動に転じます。

以後、1年のうち約半分は日本に戻り、全国各地で森林保護を呼びかける講演活動を行っています。そんな長坂さんご自身が語ってくれた壮絶な体験と人生のお話です。

2008年9月2日ベイクルーズ本社で行われた講演会と
マーマーマガジンによるインタビューより抜粋

第5回:アマゾンで木を植える  前編

たった1人でアマゾンの原始林へ

いまから43年前、わたしは25歳でアマゾンに入植しました。

アマゾンは、南米大陸にあります。わたしが渡ったブラジルは日本から一番遠い国で、飛行機に乗っている時間だけで約30時間かかります。当時は、船で行きましたから、2か月かかりました。

街から360kmはなれた、人跡未踏の原始林の中で「ここがあなたの土地ですよ」といわれ、12名の日本人が14kmごとに、車から降ろされました。1人に与えられた土地の幅は2km。奥行は開いただけ無制限に自分の土地になるということでしたから、到着したその日1日は極楽気分でした。

ところが、次の日から斧1本で木を倒してみると、1日がかりで、やっと1本の木しか倒せなかったのです。アマゾンの原始林は50m、60mという大木が林立し、見渡す限り、どこまでも続いています。やっとの思いで1本の木を倒しても、何の変化もない自然の恐ろしさを体験したわたしは、帰りたい気持ちでいっぱいになり、涙がこぼれました。しかしまわりは原始林。隣の青年とは14kmもはなれていましたから、歩いて帰れるわけもなく、ひらすら木を切り、はじめてまともに太陽を見たのは1か月後でした。高い木ばかりのジャングルでは、木を切り倒さないと太陽が見えません。その後も2か月、3か月と過ぎていきました。

時間の経過とともに恐ろしくなるのは、野生動物ではありません。人としゃべれないということがいちばん恐ろしいのです。喜怒哀楽という感情が表に出ることがないので、考えることをしなくなり、思考能力がなくなります。そうすると言葉を忘れて、頭が狂ったようになってしまうのです。

そんなとき、役に立ったのが日本語の辞書でした。戦前の移住者の方のアドバイスで、日本語の辞書を持ってきていたのです。頭が狂いそうになると、辞書を開き、書いてある文字を大きな声で読んでいきました。目で読むだけではだめなのです。自分の声に自分がはげまされ、気が狂うことなく、こころの安定を保つことができました。当時、共にアマゾンに渡った青年たちは、マラリア、テング熱、アメーバー赤痢といった病気で 亡くなりました。とうとう発狂して、「日本に歩いて帰る」といって、二度とジャン グルから戻らなかった者もいます。12名のうち、生き残ったのは、わたし一人でし た。

アマゾンにある植林地入口
アマゾンにある植林地入口。

正露丸で生まれたわたしの子ども

入植2年目のある日、わたしはマラリアで意識不明になり、町の診療所に運び出されました。そこで女房と出合い、結婚しました。子どもは3人いますが、当時のわたしには、出産のとき、病院に連れていく手段もお金もありませんでした。

ジャングルのなかで、お腹の大きくなった女房が「お腹が痛い」といいだしたとき、当時の常備薬だった正露丸を飲ませたのです。ところが次の日になっても、女房があまりに痛がるので、そこでようやくお産なのかもしれないと気がつきました。陣痛と腹痛の区別もつかない父親を持ったわたしの長男は、正露丸で生まれました。

子どもが生まれてからも、森の中でハンモックに寝かせ、口に哺乳びんをくわえさせて女房と二人で仕事に出ていました。昼と夕方に家に帰ってくると、しーんと静まりかえった原始林のなかで、我が子の泣き声がこだまするのです。犬にひもをつけ木に結び、犬が動くと、ハンモックが揺れるようにしかけをしたこともあります。犬があかちゃんのおもりをしてくれるのです。親としてはすごく情けないのですが、開拓者のほとんどの方は同じような経験をしています。

1998年に植林した森
1998年に植林した森。

家族の言葉に気づかされる

入植してから8年目に、チェーンソーなど電動の機械や、トラクターなどの重機を使うようになり、飛躍的に農場の面積を広げることができました。

わたしは静岡県清水市(現・静岡市)の出身なのですが、なんと、それとほぼ同じ面積の農場を持ったのです。わたしは大変誇らしい気持ちでした。自分のひらいた農場を家族にぜひ見せたいと、日本から母と兄を呼びました。「よくやったね」とほめてもらいたかったのです。

ところが、外は日がかんかんに照りつける午後3時、広大な土地に立った母と兄はただ「暑い」としかいってくれませんでした。そして兄に、ぽつりとこういわれたのです。「優、おまえ木を切りすぎたんじゃないのか」。

兄のその言葉をきいたとたん、伐採したときの自然の叫びが耳によみがえり、ただただ涙が止まりませんでした。返す言葉もありませんでした。

当時、わたしは現地の日本人会の責任者だったので、日系人の会合でそのできごとを話すと、みんな同じような気持ちを持っていることがわかりました。そこからわたしたちの植林活動がはじまったのです。(談)

1990年に植林した場所
1990年に植林した場所。

つづく


長坂優
profile
〔ながさか まさる〕
1940年、愛知県岡崎市生まれ、静岡県清水市(現・静岡市)育ち。1965年に東京農業大学を卒業と同時にアマゾンに移住。1990年にアマゾニア森林保護植林協会会長となり植林を開始する。現在も自称“アマゾンの百姓”として農業を営むかたわら、日本で講演活動を行っている。
アマゾニア森林保護植林協会
日本事務局
エス・エルワールド(株)社内
TEL  054-335-5451
FAX 054−335-5456

長坂優さん 熱心にお話しくださる長坂優さん。お話もとってもお上手で、思わず聴き入ってしまいます。