土曜更新
うた・こえ・からだをひらく
感応閑話
第7話 妙なる畑から生まれるうた

(野草社=刊 1990年)
私自身の沈黙といえば、必ず想い起こすことがあります。
20年以上も前のこと、いつものように大学の授業に出ずに、京都の街中をほっつき歩いていたら、路地の掲示板に貼ってあった真緑のポスターの「無耕起、無農薬、無肥料、無除草」というコピーに目がとまったのです。黒色の堂々としたフォントによる無の連打、これは只事ではないと直観し、急いで詳細をメモしました。それが自然農との出会いでした。
ポスターは『自然農 川口由一の世界 1995年の記録』(小泉修吉=監督 グループ現代=制作 1997年)という映画の自主上映会の案内で、奈良の大きな会議場で開かれること、自然農の実践者の集いや、川口由一さん本人の講演もあると知って、意気揚々と出かけたものです。
会場では、隣あった見ず知らずの方とも、あふれんばかりの期待を語り合いながら上映を心待ちにしていたのですが、150分を超える作品が始まったとたん、冒頭のクローズアップされた稲穂やテントウムシだかを見ているうちにすっかり睡魔に陥り、目が覚めた時には映画は終わっていたのでした。実に気まずくて、隣を向くことができなかったことを覚えています。
ですが翌年には、川口さんが主宰する「赤目(あかめ)自然農塾」に入っていたのだから、その場の熱量を感じ、一刻も早く自然農をやってみたい、とのことだったのでしょう。
赤目自然農塾での学びから湧き上がるもの
奈良と三重との県境にある、三重県名張市赤目の棚田での、月に一度の学びの場は土日開催で、泊りで集う塾生は、当時100名を超え始めていました。宿は車中泊か、棚田から車で乗り合わせて移動したところにある小さな古民家でした。
1日目、田畑での学びを終えて、日が暮れてくると皆で食事を準備して一斉に夕食をとります。そして夜の学びが始まります。「まず静寂(しじま)があります。始まりも終わりもない無始無終の宇宙です」という、法話ともいうべき川口さんの問わず語りが1時間近くあり、その後に農法だけではない、自由な質疑応答が続くのが常でした。
その内容はまたの機会にして、就寝時は、1階は男性、2階は女性に分かれ、布団を半分以上も重ねて並べるだけでは間に合わず、廊下にも玄関にも布団を敷き詰めるほどのぎゅうぎゅうぶり。川口さんが1畳にみたない床の間に布団を敷いて寝ているのがなんだか絶妙で、いつも可笑しみがあったものです。
そもそも私自身は田畑の手入れは初めてでした。音楽や舞踊など舞台芸術に関心を深めながらも、舞台で起きていることと生活との距離のあまりの隔たりに、今ひとつ内側から湧き起こるような生や充足を実感できないなかで、草や虫を敵としないという自然農の学びは、水を得た魚のような躍動を感じました。また、3度の食事を含む1泊2日の宿泊代が1,350円というのも、お金のない学生にはありがたいものでした。
塾の運営に必要な食材や道具、大きな棚田を維持管理していく資金と資材は、全て有志と寄付でまかなわれているということも実に見事な在り方でしたが、いのちの理(ことわり)に誠実に向き合おうとする川口さんへの信頼と、それぞれが実践する自然農の豊かさと確かさを実感していたから、成立していたのではないでしょうか。
さて、赤目自然農塾では、塾生の関わり方に応じて、田んぼは一枚、畑は部分的に区切って貸し出し、その借りたところに関しては、自分が責任をもって1年間面倒を見るというものでした。まず土曜日に川口さんのお手本を見て、そして日曜日に自分の場の手入れをするのですが、畦塗りにはじまって苗床づくりから田植えまで教わったとおりにやってみるなか、籾(もみ)の発芽に小躍りし、1本の芽茎が20本から30本までの株となる分蘖(ぶんけつ)に狂喜し、出穂からの開花に恍惚とする私自身の騒々しさを尻目に、稲は何の問題もなく育っていきました。
30年近く放棄されていたこの田んぼは土がすっかり回復していて、籾のつき、実りもよく、慣行農法でみる稲穂とはまるで違う、その立ち姿の爆発力には驚かされました。そして見栄えだけではなく、耕さず、肥料も入れず、繁茂しすぎる草は抜くのではなくその場で刈ってねかせるだけで、1反につき5俵〜8俵の収穫というのが嘘ではないことを目の当たりにしたのでした。また、畑で初めて育てた小さなジャガイモや細いニンジンのあまりの甘さにもたまげました。今まで自分が食べていたものは何だったのかと。
私が生まれ育った讃岐では、米、麦、サトウキビ畑に囲まれ、枇杷や蜜柑などの果樹園なども豊かでしたが、草が一本もない土に、まったく虫のつかない米や野菜たちが、実に優美に生え揃っていたのを思い出し、薬と肥料による添加式の農法で生産と供給を安定させ、経済を回したり、味を作っていたのだなと、農業と農の違い、その内実と恩恵への理解も進んでゆきました。
秋晴れの棚田で得たうたへの兆し
そうして何もかもが初めての年の初冬、収穫時のことでした。稲刈りから天日で1か月間かけて乾燥させる、はさがけが終わり、いよいよ脱穀です。棚田の下の小屋の前に設置された昔ながらの足踏み脱穀機(穂から籾をこそぎとる道具)と唐箕(とうみ:風力で籾殻を選別する道具)まで、大量の稲穂を、肩に、背に乗せて運び続けました。
野菜と違ってなんというボリュームだろう! 自分があの巨大な茅屋根にでもなったかのように、棚田の上と下をひたすら行ったり来たりした姿は、ちょっとしたお芝居だったに違いありません。
これが塾日だと、道具に人が集中し過ぎるので、塾生は思い思いの日に再参して、それぞれの収穫作業につとめるのですが、この日も10人くらいが各地からいらしていました。ちょうどお昼どき、皆が作業を終えて棚田の崖や畔にそれぞれ腰かけてお弁当を開いているところを、稲穂を運び終えた私は、なんとなく振り向きざまに見上げたときに、それは起きました。
棚田にすわっている人たちが、それぞれ増えていくのです。1人の隣にもう1人が、そのまた上の田んぼにすわっている2人の隣にまた1人、2人と、人が増えていくように見えるのです。霊のように透きとおったような存在が見えているのか、数が増えているように頭が認識してしまうのかわからないまま、今度は空気中の粒子がキラキラと光りはじめました。酸欠ならまだしも息はあがってないし、意識はむしろしっかりさめているのに、人の増殖と、そのキラキラは一向にやむ気配がないのでした。
一瞬だったのか、どれくらいの時間それが続いたのか、自分の胸にどーんという穴が空いたような衝撃がおそってきました。そして、そこに突き上げるような豊穣感が立ち上がってきたのです。だが声は何も出なかった。そう、沈黙のままでした。ただただ晴れた秋の空の下で、ふるえたように茫然と立ちつくす他なかったのです。
今思うに、あれは私がうたいだす兆し、内から湧き起こるものとの出逢い、感応そのものでした。妙なる畑に立つことでうまれた沈黙のうたを、私はいつまでも忘れないと同時に、そこに流れこんでくる無始無終のうたを私は一生うたい続けるでしょう。
それがわかったのは、その後に木曽節や郡上節をはじめとする民謡と出会ったからでもありました。ああ、これだったのか、あのとき生まれたものは。民謡を知って、民謡をうたうことでむしろ満たされるような安堵すら感じたものです。それは、かつて里唄や俚謡(りよう)とも呼ばれた百姓のうたです。次週からはしばらくそんな土から生まれたうた、土に愛された民謡の話にお付き合いいただきましょう。

1983年香川県生まれ、トランス・ナヴィゲーター。3児の父。幼少より郷土芸能に親しみ、日本各地の神事芸能や現代舞台芸術に足を運ぶ。2010年より岐阜県郡上を拠点に、わらべうた、作業唄、踊り唄、祝い唄の採集と伝承をライフワークとし、民謡バンド「GUNSOKAI」として活動。2020年より、声・うた・からだの探究と感応を促す「トランスワーク」を開発、各地でWSを開催。近年は、山伏修行もつとめ「山伏鵺(ぬえ)神楽」などの創造的奉納に励む。「源流遊行」(長良川カンパニー)、クラフトアパレル「ODORIGI」など、土地と人の関係をとらえなおす企画やメディア編集、ブランディングも行う。2025年5月に編集長として制作したzine『源流遊行MANUAL』vol.1を発行。
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源流遊行HP https://genryu-yugyo.com
